無価値感を抱える専業主婦がすべき「行動が価値を生む」という考え方

無価値感を抱える専業主婦がすべき「行動が価値を生む」という考え方

私はイギリスで専業主婦をしている。

イギリスに移住して半年も経たずにパンデミックが起こり、社会とつながる機会が得られないまま、子供を産み育てることに専念することにしたのだった。

しかし私は、幼い子供もおり夫と話し合って専業主婦になると決めたのに、専業主婦でいることに後ろめたさを感じていた。「今は働けない」というだけなのに、働いていない・お金を稼いでいないことに対し、いつまでもモヤモヤが消えなかったのである。

では、そのモヤモヤとは何か…「無価値感」である。

きっとこれは、私だけではなく多くの「専業主婦」が抱えているものなのではないだろうか。ここでは、この無価値感に正面から向き合ってみたい。

専業主婦である自分の無価値感に向き合うきっかけは、失敗続きの妊活

私が専業主婦でいることに後ろめたさを感じていたのは子供を産む前と、子供が3歳からナーサリーに通い始めて自分の時間ができた頃からだろうか。家事に加え、娘や時には夫の面倒も見ているが、長時間働いて不自由のない暮らしをさせてくれている夫に対し、私との明らかな負担の差を感じて申し訳なくなるのだった。

そして移住して6年が過ぎ、娘が学校に通い始めて自分の時間が持てるようになった。二人目の子供を望むも胞状奇胎・流産と続き上手くいかず、自分はどれだけ役立たずなのだろうという無価値感に襲われ、自分の内面に向き合わざるを得ない時間を過ごしたのである。

働きもせず、専業主婦として時間にも体力にも余裕のある生活を送っているのに、妊娠・出産が上手くいかないことで自分の生き方の方向が定まらない。二人目に恵まれた場合と恵まれなかった場合では、働き始めるタイミングや働き方は変わるだろう。この状況が私には大きなストレスだった。

また、妊娠初期のつわりやそれに付随する多くの体調不良とストレスに長期間さらされながら、妊娠しても出産までたどり着けないという虚しさや悔しさは「多大な労力をかけたのに何も手に入らず、妊活の恐怖と自分の無価値感を残す」という、今までに味わったことのない強烈な経験だった(胞状奇胎・流産の経験はこちらの記事に書いています)。

今は専業主婦であるからこそ、自分が使える労力の行き場がないことに対しても虚しさを感じ、この無価値感を何とかしないと生きていけないとすら思い、私は追い詰められていた。

私が抱える無価値感から見えてくるもの

私が抱える「無価値感」は、いくつかある。

二人目の妊活が上手くいかない役立たずな自分に対する「無価値感」、専業主婦として働いてお金を稼いでいない「無価値感」、親や家族に手間やお金をかけるなと言い聞かされて育ったことによる「無価値感」、このあたりであろうか。

自分に無価値感を感じるということは、「価値を生み出せないと思う自分」もしくは「価値がないと相手に思われている自分」であるから、自分を無価値だと感じてしまうのであろう。

では、それぞれ何が私にとって「価値のあるもの」なのだろうか。

妊活であれば「子供」、働くことであれば「お金」、親や家族からは「お金や労力をかけてもらう価値のある人間であると認められること」であろうか。こう考えると、私は「人との繋がり」と「お金」に価値があると思っているようである。

人との繋がりは、「助けてください」と言える人間関係を作ることを目指している私にとって、当然大切なものである。「依存先を増やし、自立する」という生き方をするには、依存先となる良好な人間関係が必須なので、人との繋がりを求めるのは自然であろう。(「依存先を増やして、自立する」生き方については、こちらの記事に書いています

「お金」は「ほぼ何にでも交換できる便利なもの」なので、みんなが欲しがるものである。そしてみんなが欲しがるので、価値があると思われている。みんなが欲しがらなくなったら、お金はただの紙切れになってしまうだろう。

「依存先を増やし、自立する」生き方をするにあたりお金の使い方は重要になるが、お金がなくても依存先があれば何とかなると考えているので、ここでは人との繋がりをメインに見ていこう。

「人(家族)との繋がり」が上手くいかなかったことで私が感じている「無価値感」に焦点を当てていきたい。

「あなたは私にとって価値がある」と示すには、行動が伴うものである

親や家族から「お金や労力をかけてもらえなかった」ことに対し、私はものすごく傷つきながら生きてきた。親や家族から「あなたには家族のお金や労力をかける価値がない、あなたは私たちにとって大切な人ではない」と言われているようなものだったからである。

「お金をかけるな」「労力を使わせるな」と言われてきたのは、お金や労力が親にとって大切な資源だったからであろう。労力は親の時間と行動が必要なものであり、お金は親が外で時間を使い働いて得たものである。

その大切な資源を使う相手は、その資源を使う価値がある相手となるだろう。

自分にとって大切な相手である夫と子供との関わりで、私はそれを実感した。子供のためであれば自分の労力もお金も惜しみなく使ってしまうものだったし、夫に対しても子供と同等まではいかなくとも自分の労力を使って何かしたい気持ちになり、自然と行動に移していた。

「あなたは私にとって価値のある人だ」と示すには、それ相応の行動が必要なのである。自分の親や家族から労力やお金をかけてもらえないことが、私の無価値感を作り出していたのだ。

例えば、恋愛で考えるとわかりやすい。「あなたが好きだ」と言いながら、自分の都合のいい時にだけしか会ってくれない相手に対し、大切にされていると感じるだろうか。時間を使わず、労力も使わず、お金までも使ってくれない相手だとしたら、相手は私に対し価値を感じていないと考えるのが妥当ではないだろうか。

恋愛になると「相手の言葉を真に受けるのではなく、行動を見ろ」と言われるものだが、それは恋愛に限らず「行動が伴わない相手」からは大切にされていると感じることはないだろう。

そして労力が使えない・行動ができないのであれば、その代わりに便利なお金を使うという方法もある。

お金は自分の時間や労力を使って得た「ほぼ何にでも交換できる便利なもの」だから、それを使うことで直接的な労力の代わりとすることもできる、といった感じなのだろう。そして、そのお金を得るのにも、基本的には「行動が伴う」ものなのである。

無価値感の厄介なところは「相手の厚意を素直に受け取れない」こと

私が夫や娘に愛情を表現するのにも、夫や娘から大切にされていると感じる時も、自分から・相手からの行動が伴っていた。

その一方で、私は親から行動が伴う愛情表現をされた記憶が、あまりない。「親の労力やお金をかけさせるな」と言い聞かされてきたくらいだから、私にとって親のそういった意思表示は「あなたは私にとって価値のない人である」という愛情のかけらもない表現であったと言える。

私が無価値感を抱えているのは、親や家族からの対応を考えれば当然なのかもしれない。

それでは、その無価値感をなくしたいと考えたとしよう。「労力やお金をかけてもらえない」ことで自分は無価値だと感じたのであれば、「労力やお金をかけてもらう」ということをすれば無価値感はなくなるのではないだろうか。

単純に考えればそうなのかもしれないが、無価値感の厄介なところは「私は労力やお金をかけてもらう価値がない」と思っているために、「相手の厚意を素直に受け取れない」ことである。「価値のないこんな私に、ここまでしてもらっていいのだろうか」と考えてしまい、相手に労力やお金をかけてもらうことに対し、申し訳ないと感じてしまうのだ。

私は、自分にお金を使うことすら苦手だった。自分にお金を使う価値があるとは思えなかったからなのだろう。自分に対してもこの状態であったため、人からの厚意を受け取ることもできなかった。人から何かを受け取るとしたら、それに見合った何かを絶対に差し出さなくてはならないと思っていた。

私が差し出せるのは何?私はどんな価値を相手に与えられる?などと考えだし、病み始めるのである。これでは無価値感を消すのは難しい。

無価値感をなくすには、自分から相手に与える行動を起こす

それでは、どうしたらいいのか。

相手からの厚意を受け取るのが苦手なら、「受け取りやすくする」しかない、と私は考えたのだった。まずは自分から「相手に与える」のである。

こちらから先に与えておけば、相手からの厚意を気兼ねなく受け取れる可能性が高いからだ。自分から与える習慣がついていれば、相手からの厚意もすんなりと受け取れるようになるかもしれず、それが上手くいけば持ちつ持たれつというのが普通になるだろう。そこまでやるしかない。

そしてこれは、「見返りを求めての行動」にはならない。

なぜなら、無価値感を抱える私が「相手からの厚意を、素直に受け入れられるようにするため」の行動だからである。相手のためでなく自分のためにするのだから、相手には何も求めていないのである。

そして相手に対して何らかの行動をするということは、「あなたは私にとって価値のある人である」と相手に示すことになる。自分のためにする行動でありながら、相手のことを大切にする、ということができるのだ。

以上のことから、私は無価値感の払拭には「相手に与える行動をする」というのが有効なのではないかという結論に至ったのである。

行動が価値を生む

無価値感の払拭のため、私は行動することにした。娘や夫に対して行動するだけでなく、noteで文章を書くという行動も起こしたのだった。

これは、コントロールの利かない妊活で痛い目を見た自分の精神面を回復させるために、妊活よりもコントロールが効きそうなことに挑戦がしたくなったからである。妊活から距離を置きつらい現実から逃げるためでもあったが、この行動によってある言葉に実感が伴うという体験をした。

それは「行動が価値を生む」という言葉である。

自分が抱える生きづらさから、いろんな思想に触れるようにしてきたが、この「行動が価値を生む」も言葉としてはその通りだし理解していたつもりであった。しかし今までは、行動が価値を生むということに実感が伴ってはおらず、自分の実生活に実装できていない思想であったのだろう。

痛い目を見て考え抜いた後にnoteに取り組むことで、これに実感が伴ったのだった。ああ、こういうことか、と。

もし私が行動せず、私の経験や感じたこと・考えたことを文章にしなかったら、誰にも伝わらず、そこから価値は生まれなかっただろう。たとえnoteで有料記事が売れなかったとしても、私は自分の経験やそこから考えたこと・導き出したことに対して価値を感じている。

そしてブログでも、こうして書いている。ひっそりと運営している私のブログでも読んでくれたり、メッセージをくれたりする人がいるのだから、私でも書くという行動をすることできっと価値は生み出せているのだ。

「行動が価値を生む」のである。

そして私は今日も娘に抱きしめられ、その娘の行動に大きな価値を感じている。たったそれだけの行動でも、価値を生んでいるのである。

専業主婦の価値の提供は、お金を介していないだけ

専業主婦も、外で働いてお金を稼いではいないが、価値を生み出していることはみんな分かっているはずであろう。家事や子育ては時間や手間がかかるものであり、それ相応の労力を使う必要があるのだから。

家族に合わせて行動したり、生活するのに必要な細々としたもの・ことの管理をしているのも、専業主婦がやっている場合が多い。そしてこの「自分ではなく家族に合わせた(家族を優先させた)生活」を長期間・毎日続けるのは、思いのほかしんどいのである。

こういった日々の生活のことを、専業主婦は「お金を介さずに直接」価値を提供している。

ただお金を介していないというだけで、専業主婦は価値がないと思ってしまう・思われてしまうのは、「お金に縛られている」人が多いからなのだろう。「お金を介さずに価値をみる・感じる」ことができなくなっているのは、この社会が抱える病的な価値観だと私は思っている。

そしてつい油断したり、自分が弱っていたりすると、私もこの呪縛に悩まされてしまうのである。

どんなに「お金が全てではない」や「お金だけで価値は決まらない」などというようなことを思っていても、人は簡単にお金に縛られてしまう。実際問題、お金がないととても生きづらい世界に私たちは生きているので、仕方がない面もあるのだろう。

この病的な価値観に対しては、徹底的に「お金を介さずに価値を見る・感じる」ということを続けていくしかないと私は考えている。

※無価値感やお金の呪縛については、noteの有料記事で詳しく書いています。興味があればこちらもご覧ください→「専業主婦として生きる葛藤と怠け癖――無価値感とお金の呪縛に向き合う 」