先日、家族でスーパーへ買い物へ行ったついでに、公園に寄ったときのこと。
娘が遊んでいる遊具に、だいたい5歳と2歳くらいかと思われる姉妹がやってきた。自然と3人で遊ぶようになるかと思いきや、娘と年の近い上の子ではなく下の子が娘と遊び始めたのだった。
こんな小さい子なら親がいるはずとあたりを見回してみると、10歳と8歳くらいの兄妹が乗る大きな遊具を、その子たちのお母さんが押して揺らしていた。どうやらこの人が、娘と遊んでいる子たちの母親のようである。
1人で歳の差のある4人の子供は見れないのだろう。仕方のないことだと思いつつも、下の子たちとの距離はだいぶ離れており、こんな小さな子供から目を離すのは少し怖いなと思いながら、遊ぶ娘たちの様子を見ていた。
別の遊具に移っても、娘とその2歳くらいの子は楽しそうに遊んでいたのだが、この時ものすごく気になることが起こっていた。
この子たちの姉だと思われる8歳くらいの子供が、その年にしてみると異常だと感じてしまうほど、母親に執着していたのである。「Mummy! Mummy! 」と長時間大声で連呼しながら遊具に乗り、下の子供たちを見ようとする母親を何度も呼び止めていた。
その状態なので母親は無視できず、下の子供達の元へ行くことができずにいたのだった。大変そうだと思いつつ、小さな子供たちが怪我などしないよう、私は夫と見守っていた。
娘たちが遊び続けてしばらく経ったとき、夫と話しながら娘の様子を見ていたところ、違和感のある光景が目に留まった。一瞬、何が起こっているのか理解できなかったのだ。
娘が泣いている。
娘が遊具から落ちそうになっている。
そして、娘が2歳くらいの幼い子に、顔を蹴られていたのだ。
慌てて近づき娘を抱き上げたのだが、その間にもその子は娘の顔を蹴りつけた。
笑いながら、である。
幼い子供の無邪気な暴力性に、私は初めて恐怖を感じたのだった。
子供の泣き声が聞こえ、周辺の空気が変わったことに気が付いたのだろう。母親がやってきて、幼い子供に謝罪をさせようとするが、子供は笑ったままである。暫くしてようやく、その子供は泣き出し、謝った。
泣き続ける娘を抱きつつ「もう大丈夫です」と言ったところ、その親子は離れていったのだった。この一連の出来事で、私は何となく感じてしまったことがある。
だたの私の勘違いであることを願うが、恐らくこの小さな子供は兄妹の誰かに同じようなことを「やられている」のではないだろうか。母親の見えないところで、母の目が向きやすい妹に対し嫉妬した兄妹が、このような攻撃性をこの子に向けているのではないだろうか。
娘の体は小さいので、この一番下の子供と同じくらいの体の大きさだった。他の兄妹には歯が立たないが、同じくらいの体の大きさの相手は、暴力を向ける相手にうってつけだろう。
遊具を上っており手が出せない娘に対し、笑いながら上から蹴りつけていた。手を離せば娘は落ちていたのだ。今までいろんな公園に行き、いろんな子供と娘は遊んできたが、ここまでの暴力を受けたのは初めてである。
暫くして、落ち着いた娘は他の遊具で遊びだした。私と夫に見守られながら楽しく遊び始めた娘に対し、何か思うところがあったのだろうか。あの子が近づいてきて大声を出し、娘を追いかけまわし、何度も威嚇してきたのである。
さすがにもう無理だと思ったのか、母親は公園を去ろうと準備をし始めた。大声を出して威嚇し続ける子どもをベビーカーに押しとどめ何とか座らせるが、他の子供は母親たちを無視して遊び続けていた。
それを見ている私が、もう何とも言えない、居たたまれない気持ちになったのである。
大人一人で、幼児を含む歳の差のある子供を4人も見ることなど、不可能に近いと思う。これを毎日このお母さんはやっているのだろうか。母親に異常なほど執着する上の子と、娘に驚くほどの暴力性を向けた一番下の子を見ると、この親子が抱えている闇を感じてしまうのだ。
親子問題に悩み続けた私が感じる、深い闇が始まっているのだろうと、思わずにはいられなかったのである。たった一日、大人の手が足りなかっただけでは、こうはならないであろう。恐らく、普段から大人の手が、大人の目が足りていないのである。
核家族での子育ての難しさを、考えずにはいられなかった。ムリゲーなのだ。
娘が他の子供に暴力をふるうことがあったら、どんな気持ちになるだろうか、どんな対応ができるだろうかと、考えてみることとなったのだった。それこそ、申し訳ない、居たたまれない気持ちと共に、なぜ娘がその行動に出たのかを私は探るだろう。暴力をふるうには、それなりの理由があるはずだと私は思っている。
この件で、私と夫の感想は違うものとなった。
夫は「子供のすることだから、仕方がない」で終了である。確かにそうとも言える。子供がまだコントロールできない感情や暴力性があっても、いちいち大騒ぎすることはないのであろう。
しかし、その行動にはそれに至るまでの「何か」があるはずだ、と私は考えるのである。大して気に留めない夫と、考えないと気が済まない私の違いというのを実感した出来事であった。
