愛情の反対は憎しみではなく無関心

愛情の反対は憎しみではなく無関心

以前、「屈辱の裁縫セット」というタイトルでブログを書いた。

この裁縫セットにいい思い出もなく惨めさを感じるだけなのに、私はその裁縫セットがなかなか捨てられなかった。いつか捨てられる日は来るのだろうかと思いつつ、そんな日は来ない気もしていたのだが、遂に去年の暮れ、この裁縫セットを処分した。想像していたよりもずっと、あっけないものだった。

あのブログを書いてから少しして、私は何かに突き動かされるように新しい裁縫道具を買った。

屈辱の裁縫セットは針は少し錆びているものがあったものの、鋏の切れ味はよく全体的にまだ使える状態だったのだが、なぜか急に気に入らなくなったのである。なぜこんなものが私の手元にあるのだ、これは私が好きなデザインじゃない、これは私に相応しくないと、これを所持していることが許せないというか、突然我慢が出来なくなったのだ。

そして私は、自分の好きな裁縫道具をそろえた。今、大人になった私に相応しい私の好きな色、デザインの裁縫道具である。

生活に必要な裁縫道具がそろってすぐ、私はあの屈辱の裁縫セットを捨てた。もう何も感じなかった。

そしてこの時、もう大体の片が付いたのだと直感した。この行動に出る前から薄々感じていたのは、親に対する恨みや執着が薄れてきたことである。親とのことは、もう粗方考えつくしたように思うし、今自分が築き上げている自分の家族のことの方が大切で、簡単に言えばこちらの方はもうどうでもよくなってきたのだ。

「愛情の反対は憎しみではなく無関心」というが、本当にその通りなのだろう。恐らくもう、前ほど親との関係でできた傷が疼くことはない。前ほど痛いとは思えない。

本当に、もういいやと思った。ここまで来るのに、出来の悪い頭でどれだけ考え、どれだけ行動してきただろうか。もう人生の折り返し地点も超えており、何十年もかかってしまった。いい大人なのに、親離れができていなかったともいえる。

ただ、親との関係に苦しみ、私はそこから多くのことを学んだとは思う。結局、人というのは苦しみなしに人間らしくなることはできないのではないかと思うほど、苦しみに向き合うことは人に深みを与えるのだろう。

最近思うのは、親子関係に簡単な解決策なんてものはなく、親子の問題を薄くするもしくは問題を問題にしないというような生き方をするしかないのではないかと思うようになった。私の場合は親よりも夫や子供と強い繋がりを作ることで、親との関係を自分の中から薄くすることに繋がったのだろう。そうして親との問題が、私にとって大した問題ではなくなったのだ。

毒親に育てられるとその子もいづれは毒親になってしまうという連鎖があることは、自分にも当てはまるかもしれないと心しておくべきなのだろう。昔は子供の立場で親との関係に悩んだからこそ、自分が子どもを持つことに消極的だったが、子どもを持つ機会に恵まれて良かったと心から思う。